美濃焼の歴史
 
 美濃地方では、平安時代より土師器(はじき)、須恵器(すえき)、※灰釉(かいゆう)を焼き付け、鎌倉・室町時代には、山茶碗(やまちゃわん)・古瀬戸(こせと)・灰釉(はいゆう)と鉄釉(てつゆう)が焼かれていました。 (※平安時代のものは灰釉「かいゆう」と呼ばれています。)

 室町時代後期(1500年頃)になり、山の頂上付近に「大窯(おおがま)」と呼ばれる単室の窯が築かれ、灰釉・鉄釉のやきものが作られるようになりました。

 その後、灰釉は焼き流れしない釉薬に改良されたものができ、「黄瀬戸(きぜと)」となりました。又、窯の中より色見を引出したことから、引出し黒を見つけ、※「瀬戸黒(せとぐろ)」が生まれました。 (※引出し黒又は天正黒とも呼ばれています。)

 織田信長や豊臣秀吉の桃山時代になり、千利休や古田織部等による茶の湯の流行から茶陶の世界が生まれ、灰釉に長石(ちょうせき)を加えた「灰志野(はいしの)」を作り出し、次に長石だけの「志野(しの)」が作られるようになりました。そして、日本において初めて筆書きの文様付が可能になりました。やがて、山の斜面を利用した「連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)」と共に、斬新なデザインのやきものが生まれました。これが美濃のやきもの「織部(おりべ)」の誕生です。

 このように味わい深い「黄瀬戸・志野・織部・瀬戸黒」等が作り出された桃山時代は、日本を代表するやきものが生まれた時代でした。

 江戸時代に入ると、日常生活に使われる食器が大量に生産されるようになり、幕末には、白くて硬い磁器が焼き始められ、その後、生産性も上がり全国的に流通するようになったのです。

今では、和食器の全国生産の60%以上を生産する陶磁器の生産地になっています。


 美濃桃山陶
美濃桃山陶  美濃の歴史は古く、平安時代中期には醍醐天皇の「廷喜式」に「美濃の国を陶器調貢国に定め・・・」と記されています。
 その後、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて花開いた桃山文化の時代には、美濃の陶工・京の画工、そして茶人たちの意思が結実し、志野・織部・黄瀬戸といった日本を代表する器が生み出されました。
 これらを美濃桃山陶と呼び、市内各地の古窯跡では現在も発掘調査が続けられています。

 やきものの歴史




7世紀







10世紀











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平安時代





鎌倉時代



室町時代






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時代












江戸時代
















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昭和時代
各地に古墳が
造られる

十七条憲法
制定

大化の改新
平城京遷都

平安京遷都

平将門の乱

平清盛太政
大臣となる
源頼朝鎌倉
幕府開く

元冠おこる
足利尊氏室町
幕府を開く

応仁の乱

ポルトガル人
種子島に漂着

織田信長
安土城築城


本能寺の変
豊臣秀吉
大阪城築城
千利休切腹

文禄・慶長の役


関ヶ原の戦

久尻元屋敷窯
開窯

大阪夏の陣
古田織部切腹


島原の乱


享保の改革
寛政の改革
天保の改革
ペリー来航


明治維新

日清戦争

日露戦争

第一次
世界大戦
第二次
世界大戦
土岐市制
はじまる

須恵器



白瓷





天目



黄瀬戸



志野



織部



御深井



磁器



高強度磁器
 
  黄瀬戸
 植物の灰を原料とする灰釉を施し、淡黄色に焼き上がったもので、刻線文・印花・胆パン・胴紐などの装飾が施されています。碗・向付・鉢・花入・燭台・香合などの製品が作られています。瀬戸黒と同じく16世紀末から17世紀にかけて大窯で生産されました。
黄瀬戸
 
 ◆ 志野
 厚く施した長石釉が乳白色の色合いを出し、所々に火色があらわれています。はじめて筆による絵付けがなされた焼物で、器種は碗・向付・鉢・皿・水指・香炉・香合など豊富です。16世紀末から17世紀初頭にかけて大窯で生産されましたが、瀬戸黒・黄瀬戸より誕生は後になります。
志野
 
 ◆ 織部
 釉薬・施文・胎土の違いで、黒織部・青織部・志野織部・鳴海織部・赤織部・総織部・美濃伊賀・美濃唐津などに区別されています。美濃出身の茶人古田織部の好みというところから、織部の名称で呼ばれています。器の変形や文様・色調の多彩さが特徴です。17世紀初頭に美濃の連房式登窯で生産されましたが、特に元屋敷窯の製品は優れています。
織部

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